真珠星 01

夢だ。それは確かに夢だった。
私はそれが夢だと気付いた時、すでに走り出していた。
何度も見慣れたはずなのに、これから一体何が起こるのかも、私が何を感じるのかも、全てわかりきっていたはずなのに。
それでも私は、走るしかなかった。
ただひたすら、拭うことのできない恐怖と不安だけが胸を占めていた。
足下に目をやると、酸化して赤黒くなった血と、腕だとか足だとか、人間であったもの達が転がっていた。
硝煙の臭いと共に、ぼろぼろになった鉄もばらばらとそこかしこに散らばっている。
しんとした世界の中で、自分の息遣いとどくどくと早鐘を打つ鼓動の音だけがやけに鮮明に聞こえた。
私は走り続けた。
走って、走って、気付けば足下に転がるもの達は骸骨になっていて、すがるように私の足を引っ張ってくる。
必死に足を動かして骸骨達を振り払って、私は走った。
足がもつれ始めて、息もうまく出来なくなってきた頃、目の前に、唐突に、高く黒い鉄格子が立ちはだかる。
見上げれば果てはなくて、どこまでもどこまでも続いていた。
天に続いているはずの鉄格子の先は、地獄に繋がっているような気がした。
私の両足からふっと力が抜けて、がくりと崩れるように膝を折る。
過去急気味になった肺は熱くて、口からはひゅうひゅうと息が漏れて、心臓はどくどくと煩い。
ゆっくりと振り返ると、そこには一人の黒い男が立っていた。
男を認識した瞬間、ぞくりと背筋が凍って、全身ががたがたと震え出す。
後から後から恐怖が込み上げてきて、目の前が涙でぼんやりと揺れ始める。
男は針を携えながら、一歩、また一歩と、私の方へ向ってくる。
私はついに悲鳴を上げた。
嫌だ!来ないで!触らないで!!
男の黒く塗りつぶされた顔から、ただ無機質に光る黒い瞳だけが不気味に浮き上がって、私をじっと見据えている。



「……ちゃん、お嬢ちゃん」
はっとして目を開けると、心配そうに私を覗き込んでいるお婆さんと目が合った。
白髪混じりの眉尻は心持ち下がっていて、濁った青い瞳が心配そうな色を浮かべていた。
---ああ、またあの夢か。
どこか冷静な頭で理解する。
心臓は未だどくどくと脈打って、額にはじっとりと脂汗がにじんでいる。
「大丈夫かい?随分うなされていたようだけど」
「はい、大丈夫です…ごめんなさい、ありがとうございます」
「そうかい?具合が悪くなったらいつでもお言いなさいね」
お婆さんは、人の良さそうな小皺だらけの顔をくしゃりと歪めて優しげに笑うと、再び椅子に深く体を沈めた。
私はふう、と気付かれないように息をついて、だらしなく椅子に座りなおした。
---いつだってそうなのだ。何度見ても変わらない、夢。
夢の中でも”これは夢だ”とわかっているのに、いつだって恐怖は色褪せることなく私を襲ってくる。
現実に引き戻されるときもいつだって唐突で、何が夢で何が現実なのか、一瞬理解できなくなる。
隣に座るこのお婆さんすら、もしかしたらあの夢の男なのではないか、これは夢の続きなのではないかと、心のどこかで思っている。
たかが夢にいつまでも縛られている自分がひどく情けない。
ずるずると窓に頭を凭れて外を見ると、景色はすでに、のどかな田園地帯から活気のある宿場町へと移り変わりつつあった。
その賑わいが、目的の地までそう遠くないことを語っていた。
「……絶対、」
窓を睨みつけながら、誰にも聞こえないように小さな小さな声で呟く。
これは誓いだ。私と、姉さんへの誓い。

「殺してやるんだから。絶対に。」



それから何駅かがすぎて、窓の外を眺めるのにも飽きてきた。
隣に座っていたお婆さんはすでに2、3駅手前で降りていて、列車内の人の気配も大分少なくなってきたように思う。
乗った頃に比べて随分静かになった。
がたんがたん、とただ列車と線路の擦れあう衝撃音が響いている。
ふあ、と欠伸を一つして、ふと違和感に眉を顰めた。
静か?
そんなことがあり得るのだろうか。
この列車は、中心地へ向っているのではなかっただろうか。
ザバン市はそれなりに大きな町だし、人の出入りだって少なくない。
それなのにこの列車は、その中心地へ向えば向うほど人が少なくなっていっている。
私が乗ったのはこの大陸の中でも随分西の寂れた町だ。
人がいれば、呼吸音だとか話し声だとかで多少なりとも騒がしくなるはずだ。
あの西の寂れた町で乗ったときよりも、中心地に随分近づいた今の方が静かだなんてこと、果たしてあり得るのだろうか?
---いや、あり得るわけがない!
考えに耽っていたからか、何か嫌な事が起こる直前に訪れる、居心地の悪いような空気の淀みには気がつかなかった。
突然がたんと列車が揺れて、どん、と急激に体が前に持っていかれるような感覚に襲われる。
油断していたからか、前列の背もたれに額をしたたかに打って、ぐ、とうめき声を上げる。
ぐらぐらと揺れる感覚とまではいかないが、じんじんと後に引くような痛みが額全体を覆っている。
右手で額を押さえていると、列車はギギギと耳障りな甲高い音を響かせながらぎりぎりと滑るように停車した。
車内はいくらかどよめいて、何人か席から立ち上がって前方を窺っている。
この車両は列車の最後尾なのだから、何かあったのならその原因は前方車両にしかあり得ない。
体格の良い男が二人、前の方を見てくると誰にともなしに言い置いて、前方車両との間を仕切るドアをぴしゃりと閉めていった。
数秒間の沈黙の後に、こそこそと小声で呟くような囁きがいくつか重なった。
首を伸ばして全体を見渡すと、人は目視できるだけで20人程度しかいない。
さっき出て行った男達を合わせて、22人。私を含め23人。あまりに少ない。
私が乗った時でさえもう少しはいたはずなのに。
先程の疑問が再びふつふつと湧き上がってきた。
少なすぎる乗客、動かない列車。
一体何が起こっているのだろう?
「おいあんた、大丈夫か?」
不意にかけられた声に振り返ると、通路をひとつ隔てた席に座っているスキンヘッドの青年がこちらを見つめていた。
的を射ない問いかけにきょとんと首を傾げると、男はにっと笑って言った。
「結構打ったろ、今。赤くなってるぜ」
「…大丈夫です」
とんとん、と額を指差しながら言う姿になんだか馬鹿にされている気がして、むっとしながらぶっきらぼうに答えた。
ぷいと窓の方を向いて、じんわりと痛む額をさすっていると、くつくつと笑う声が聞こえてくる。
全く失礼な人もいたものだ。
気恥ずかしさも相俟って、意味もなくふぅとため息をついてみる。
すると、よっ、といった声と共に隣の席がぎしりと軽く揺れる。
見ると、男はどうやらわざわざ席を移動してきたらしく、椅子に深く腰掛けてがさがさと荷物を整理していた。
「…何ですか」
「そんな怒んなって、冗談だよ。東洋人なんてこっちに来てから初めて見たもんでさ、つい声かけちまったんだ」
悪ぃな、と笑いながら、男はおもむろに手を差し出してくる。
その笑顔がどこか憎めなくて、何か文句でも言ってやろうと思っても何も思い浮かばない。
毒気を抜かれた、正にそんな感じだ。
はぁ、とわざとらしくため息をついて、差し出された手に応えるように握手を交わした。
「由乃よ、由乃=浅香」
「ハンゾーだ。よろしくな、由乃。出身は?」
「ジャポン。小さな島国だから知らないと思うけどね」
知らないな、と言われることを予想して言うと、ハンゾーは驚いたように目を見開いて、嬉しそうに叫んだ。
「ジャポン!?知らないどころじゃねぇよ、俺もジャポン出身だ!」
「え、うそっ!やだ、すごい偶然!」
「まさかこんなところで同じ国のヤツに会えるとは思わなかったぜ」
同郷の人と会うことがあるなんて思ってもみなかった。
この大陸に渡るまで、船で約10時間。
列車をいくつか乗り継いで、この国に入るまで二日かかった。
ジャポンを出てからまだ三日程度しか経っていないというのに、気候も食文化も違いすぎるから、妙に懐かしく感じる。
今頃雪でも降っているだろうか。
昔、まだ父さんも姉さんも生きていた頃、幼かった私は姉さんの手をしきりに引っ張って、一緒に雪だるまを作ったりしたっけ。
寒い外から家の中に入ると、父さんがお餅なんか焼いてくれていて、醤油をつけて海苔を巻いて、ふうふう息をかけながらみんなで食べた。
そんな日々が懐かしくて、愛しくて、どうしようもなく胸が熱くなる。
「こっちは暖かいから忘れかけてたが、もう正月なんだよな。今頃、ジャポンじゃ雪でも降ってるかもな」
「小さい子達が雪だるま作って、家で磯辺焼きとか食べてたりしてね」
思い出はいつだって甘美で、だからこそ寂しくて、泣きたくなるほど切ないんだ。

祖国の話に花を咲かせていると、ドォン、と一際大きな音がして、再び列車がぐらりと揺れた。
不意ではあったものの今度は額をぶつけるような事はなく、ハンゾーと顔を見合わせる。
「何なの?さっきから…」
「さあな。でも、なんだか嫌な予感がするぜ」
ハンゾーの目は真剣だ。
車内はついにざわざわと騒ぎだした。
時計を見れば、先程前を見てくると言って男達が出て行ってから、もう15分以上経っている。
「ねえハンゾー、さっき出て行った二人…」
言いかけて、突然響いたガアンという大きな音に遮られる。
はっとして前を見ると、開いたドアの先、前車両との連結部分に、一人の男が立っていた。
先程出て行ったうちの一人だ。
男はにやにやと厭らしい笑みを浮かべて、手には短機関銃を握っていた。