rose liebe lilie 01 -狂い咲き-


10月も半ばに差し掛かり、風も少し肌寒くなってきた。
クリーニングから返ってきたままの制服のカバーをはずして袖を通すと、なんだかひどく神聖で、それでいてどこか背徳的な気持ちになる。
部屋の片隅に置かれた全身鏡の前に立つと、漆黒を纏った自分が立っていた。
このなんともいえない気持ちはきっと、この服の一点の曇りもない黒さのせいだ。
侑里は胸元のリボンをきゅっと結んで、黒革の鞄を手にドアを開けた。
"いってきます"を言う必要もない、一人で暮らすのに相応の広さをしたワンルームは、ガタンとドアの無機質な音を響かせた。

幼い頃に両親を亡くした侑里にとって、霊界という存在はそれ自体が保護者のようなものだった。
中学に入学するまでは、コエンマの秘書であるあやめに身の回りの世話をしてもらっていたが、それも中学入学と同時に終わりを告げ、侑里は毎月口座に振り込まれる生活費を頼りに、ただ一人の生活を始めた。
元々あやめとの生活も"共同生活"とはお世辞にも言えないようなもので、彼女は一人の子供が成長するのに必要最低限の世話をしていただけだった。
朝起きればご飯が用意してあって、時たま一緒に食べることもあったが大抵は一人の朝食。
"いってきます"を言うことなく部屋を出て、夕方、侑里が帰ってくる頃にあやめもやって来る。
料理や洗濯の仕方を教えながらの夕方と夕食、そして日付が変わる前にはあやめは霊界へと戻っていく。
そんな風に事務的に日々を過ごしていたものだから、大して寂しさと言うほどの感情も起こらなかった。
10年間で教わった家事をこなしてすごす日々が続き、気がつけばもう半年が経とうとしている。


人間界での保護者となっている幻海の元で、或いは霊界で、侑里に与えられた少量の"仕事"をこなすことで月々の生活費が得られているのだと悟ったのは、一体いつのことだったか。
学校へと向う電車の中、手帳をぱらりとめくりながら、ええと今日は、と思案する。
右上に流暢な筆記体で13th Oct.と記されたページには、"放課後 旧仲山市立植物園"とオレンジ色のペンで短く書かれていた。
侑里の住む町からは電車で二、三駅程度、歩いて行くには少し遠く、けれど行けないと言うわけでもない微妙な距離の場所にあったという植物園は、随分前に閉鎖してしまったらしい。
今では手入れもされずに朽ち果て人々から忘れ去られた、そんな場所へ行くように言われたのは、数日前に霊界を訪れたときの事だった。

霊界にはいくつもの部局がある。
霊界人はまるで政府の役人のように、それぞれが部局に所属して仕事---主に人間の生死の管理をしている。
中でも人間界の事象や人間自身を調査し記録する部局---情報部には、しばしば霊力の高い人間・何らかの理由で霊界と関係の深い人間が起用されることがある。
それは単に人間界の事象を調べやすいからと言う理由からだが、数少ない閻魔大王直轄の部局である情報部はただでさえ規模が大きく、人数も仕事も多い。
そんな中で人間が生身の自分の生活と霊界の仕事を両立するのは難しく、自然と能力の高い者が残る結果となった。
その中で仕事の速さ、情報の正確さや整理の巧さ、そして知識などが総じて他より秀で、閻魔大王から絶大なる信頼を得ている人物---それが速水侑里だった。
だからこそ週に二度の定期的な"出勤"以外にも急な呼び出しも多く、自然と侑里の扱う仕事は決まって対処の難しいものや長期に渡るものなど、特例的な内容ばかりとなりつつあった。
数日前に訪れたのは、担当していた案件の情報が十分集まり整理も終わって、後は責任者の印をもらうだけという段階だった為だ。
だが、着いて早々便宜的に情報部の部長となっている一人の霊界人は、侑里を見るなり丁度良いとでも言うようにばたばたと駆け寄ってきた。
「ああ、侑里ん丁度良い所に!例の件はもう片付きましたかな?」
「はい。今日は確認の印をいただきたくて…」
「おお、おお、相変わらず仕事がお早い!本当に感服しますよ。さ、それでは早速次の仕事に取り掛かっていただきたい。 近頃妙な事が多いもんでね、本当はもっと下っ端に任せてもいいんだが、どうにも手が回らず困ったもんですよ。ささ、早く早く、コエンマ様の所へ行ってくださいな!」
よく口の回るその男はさっさとひったくるようにして侑里の手からファイルを取ると、否応も言わせず背をぐいぐいと押して部屋から追い出してしまった。
背後でバタンとドアの閉まる重苦しい音が響き、一瞬にして喧騒は静寂へと変わった。
侑里は首を傾げながら廊下を足早に歩き、二つ目の角を曲がってコエンマの執務室の前に立つ。
普段はコエンマ直轄である管理局にいることが多いが、この時間帯は他の部局の状態を把握する為に執務室で各部局の仕事の報告を受けているはずだ。
朱塗りの大きなドアを二、三度ノックして侑里ですと一言言えば、思ったとおりすぐに返事が返ってきた。
失礼します、と声をかけながら入ると、山積みの書類の間からコエンマの帽子の先が見えた。
「コエンマ様、情報部の方からこちらに来るよう言われて来たんですが」
「ああ、ワシが呼んだ。悪いが、あー…すぐ終わるからこれでも読んで待っておれ」
書類の山を越えてひらひらと投げられた一枚の紙を手に取る。
そこには一本の木の写真が二、三枚と、その木の所在地など最低限の情報が走り書きで書かれていた。
「旧、仲山市立植物園?」
「桜は元来霊的な影響を受けやすい木でな。ホレ、よく言うじゃろ、美しい桜の木の下には死体が埋まってるとか」
「迷信じゃないですか。しかもそれって、死体の血で花が赤くなる話でしょう?霊とは無関係です」
「浪漫のないヤツめ。…ま、冗談はさておき」
一段落したのだろうか、コエンマは書類の山をいくつかどけながら言うと、一息ついて侑里に向き直った。
見た目にそぐわない大人びた表情だとか、落ち着いた声色だとか、そういったものが妙な緊張感を生むこの瞬間が心地良くて、侑里は少し好きだった。
きっと彼の下で働く霊界人達も、彼の生み出すこういった空気が心地良くて好きだから、彼を慕い付いて行くのだろうと、なんとなく思った。
「極稀に、本来その花の咲くべき季節と正反対の時期に花が咲くことがあるだろう」
「"狂い咲き"ですね。昔はよくありましたよね、特に、……桜」
「昔は魔界との間の結界も弱かったからな…狂い咲きは木が何らかの霊的干渉を受けることで起こるものだ。狂い咲きに桜が多いのは、桜が霊的影響を受けやすいという証明じゃ」
侑里はもう一度、渡された紙を見る。
写真の木---桜は、秋も盛りだというにも関わらず、葉を赤に染める様子もなく外気の冷たさも微塵も感じさせないように、若々とした茶色の枝先に小さく青々とした蕾をつけていた。
まるで秋も冬も通り過ぎて、或いは夏すら越さずに、そのまま春が廻ってきたかのように。
「…この桜が、狂い咲きをする、とお考えですか」
「それだけではない。近頃この近辺で、妖怪による事件が激減している。ほんの少しの、人間の生活に影響もしない程度の、些細な事件ですら、な。」
「霊界としては好都合じゃないですか」
「阿呆。物事の裏側、本質を見ろと幻海に教わらんかったのか」
物事の裏側、本質---一つの例外的事象は、ほとんどの場合何か別の事象に関係している。
二つ以上の事象を組み合わせれば、自ずとそれらの暗示するものが浮かび上がってくるはずだ。
侑里はふと口元に手をやり思案した。
桜の狂い咲きは、霊的干渉を受けていることの証。
つまりは少なくとも桜に影響を与える程度の力を持った妖怪が、近くにいるということだ。
人間、という可能性は少ない。
今の時代、桜に影響を与えられるほどの力を持った霊能力者はそう多くはないし、いたとすれば全て霊界でチェック済みのはずだ。
少なくとも仲山市、この桜のある植物園の付近にそんな人物は存在しない。
この時点で人間の可能性は消え、対象は妖怪に絞られたことになる。
桜は夏までは正常でいたはずだ、特に報告といった報告も受けていない。
ということは、考えられるのはその妖怪が最近になって仲山市へやって来たか、若しくは---成長しているか。
どちらも十分に考えられることだ。
そして妖怪による事件が激減しているとなると、その妖怪が地域を統括しようと動き始めたのかもしれない。
一見何も問題がないように思えるが、それは部分的にでも妖怪による人間界の支配に繋がりかねない。
それは霊界にとって、妖怪による事件以上に厄介な問題だ。
「…問題はその妖怪のレベルですね」
「うむ。そこでお前を呼んだというわけだ。今は霊界探偵もいないしな」
「もう、早く誰か適当な人見つけたらどうですか。探偵業は専門外ですよ?」
「わぁかっておる!だがなかなかいい素材が…そんなことはいいから、ホレ、無駄口叩いとらんでとっとと行かんか!」
はいはい、と適当に相槌を打ちつつ手をひらひらとさせて、ともかくもう遅いからとその日はそのまま家に帰ったのだった。


そして今日、まずは見てみなければ何も始まらないと学校帰りに寄ることにしていたのだ。
仲山市は初めて行くというわけではないけれど、そう何度も行ったことのある場所でもない。
侑里は地図を片手にゆっくりと、散策でもする気持ちで町並みを見ながらふらふらと歩いていた。
肌寒い風が吹き抜けて、色付き始めた葉が何枚か側を通り抜けていった。
しばらく歩いて住宅街から抜けると、丁度隣町との境にあたる所に、鉄柵で囲われた施設があった。
もともと"植物園"とは名ばかりの小さな公園のような施設だったのか、傾いた看板がひとつかかっているだけの、ひどくこじんまりとしたものだ。
ぐるりと背の高い鉄柵で囲われており、入口の南京錠は錆びてすっかりその役目を果たさなくなってしまっている。
侑里はゆっくりと、鉄柵の回りを一周してみる。
鉄柵の内側は更に背の高い常緑樹と、やはり背の高い竹藪に囲われているようだ。
先ほどの入口はというと、さすが長年手入れされていなかっただけあって、木々が生い茂り一寸先も見通せない状態だった。
---まるで目隠しだ。
侑里は苦笑し、さてどうしたものか、と思案した。
入口から草木をかき分けて中に入るか、それとも---と、ふと、竹藪と常緑樹との境に人が一人通れるほどの空間があることに気がつく。
きょろきょろと周りを見回して、人影が見えないことを確認すると、背伸びをして鉄柵に手をかけた。
そのまま腕に霊気を集め、ぐっと体を持ち上げる。
勢いをそのままに鉄柵を飛び越えると、先ほど見つけた空間へと降り立った。
そこから先は手さぐりで前へ、植物園の中心へと向かって進んでいくが、鬱蒼と茂る木々に日の光は遮られ、ひどく閉鎖的な空間に感じられた。
外観ではこじんまりとした印象を受けたのに、内から見ればなんと広く不気味に感じることだろう。
高木だらけの空間と低木だらけの空間とを抜け、少しばかり額に汗が滲んできた頃、侑里はようやっと、開けた空間にたどり着いた。
恐らく植物園の中心であるのだろう、少しばかり小高い丘のように 盛り上がっている場所にただ一本だけ、太い赤茶色の幹を持った木が人目を避けるようにして佇んでいた。
小高い丘の上といっても回りは高木に囲まれているためか、外から見れば大して目立つというわけでもないだろう。
桜の木はひっそりと、人知れず花開く準備を始めていたのだ。
侑里はそっと、ごつごつとしたその幹に手を押し当ててみた。
どくん、どくん、自分のものとも桜のものとも知れない鼓動が掌全体に伝わってくる。
桜全体に行き渡った妖気は大して強いものではなく、禍々しいものでもなかった。
桜の木は、慈愛のような優しさに満ちているようだった。
「……思いすごし、だったのかな」
ぽつりと呟くと、数日前のコエンマとのやり取りがひどく滑稽なものに思えて思わず苦笑が漏れる。
---帰ろう。
そう思い、踵を返そうとした時だった。
背後から人の歩いてくる気配が、聴覚的にも感覚的にも伝わってくる。
人間ではない。
けれど妖怪とも言い切れない。
なんとも不思議な気配に多少警戒しながらゆっくりとした動作で振り返る。
その人物が目に入った瞬間、侑里はぴたりと動きを止め、思わず息を呑んだ。
まず目に入ったのは綺麗な赤。
さらりと風に揺れるそれは、軽く肩につくほどの長さで、寒色に溢れた世界に一気に彩を添えた。
少し幼さの残る端整な顔立ちは繊細で、緑色の瞳が中性的で日本人離れした印象を与えた。
綺麗という言葉しか思い浮かばなかったし、そうとしか思えなかった。
まるで緑の瞳に射抜かれたように、侑里はその場から動くことが出来なかった。
ただ冷たい風だけがさらりと彼の赤い髪を揺らし、侑里の黒いスカートをふわりとはためかせていた。