rose liebe lilie 02 -狂い咲き-


緑の瞳は一瞬驚いたように見開かれ、すぐにまた、何事もなかったかのように色味を深くした。
口元には薄っすらと笑みを浮かべ、彼はじっと侑里を見つめている。
心臓が、とくん、とくん、と、まるで耳元で鳴っているかのように大きく聞こえる。
それは段々と、更に大きさを増していき、次第に風の音だとか生活音だとか、そういった空間を充たしていた音を消していく。
侑里はぐらりと頭が揺れるのを感じた。
どこか微温湯につかっているような、温かな浮遊感があった。
地に足の着かないような、それでいて心地良い感覚。
いつの間にか充満していた甘い香りに、一体何の香りだろうかと思いを巡らす余裕もすでにない。
目の前は次第に靄のかかったように白みを帯びていき、ゆらゆらと揺れ始めた。
いよいよ重くなり始めた瞼を引き上げようという考えすら浮かばない。
侑里はその重みに逆らうことなく、ゆっくりと、微睡へと意識を沈めていった。
ふらりと体が揺れて、ついに目の前が漆黒に包まれる---その瞬間、唐突に、ごおっと音を立てるようにして、一陣の風が侑里と彼の間を強く吹きぬけていった。
「きゃあっ」
侑里は思わず片手でスカートを押さえ、あまりの強風に目を瞑りながら顔を背けた。
ばさばさと髪と布の揺れる音が耳元で響く。
強風は数秒の間続き、やっと収まって怖々目を開けた頃には髪はすっかり乱れてしまっていた。
一体何だったんだろう、と思いながら手櫛で前髪を直し、スカートについた埃をぱたぱたと軽く払った。
後ろ髪もいくらか手で梳かしながら視線を上げると、彼もまたぐしゃぐしゃになった赤い髪を手で直しているところだった。
どうやら癖っ毛らしい彼は、侑里以上に髪同士が絡まってしまっているようで、ついには片手で前髪をざっとかきあげ、ふうと溜息をついた。
不意にその緑色と目が合って、どちらからともなく、ふっと噴出すように笑い合った。
「すごい風でしたね」
「ええ、本当に」
彼は人好きのする笑みを浮かべて、ゆっくりと侑里へ---否、桜へと近づいてくる。
さく、さく、と土を踏む音が柔らかだった。
「珍しいですね」
侑里のすぐ隣に立って桜を見上げながら、彼はふと、投げかけるように言った。
主語のない言葉に一瞬戸惑うも、侑里はすぐに、ああ、と理解して、同じように桜を見上げた。
「そうですね、こんな時期に蕾をつけるなんて…普通は4月とか、春に咲くのに」
侑里は不意に覚えた違和感に眉を顰めた。
自分の言った言葉がどこか的を射ていないような、何か大切なことを見失っているような、そんな不安が一瞬頭を過ぎったのだ。
「それもありますが…あなたが」
「…え」
写真で見た時よりも一回りか二回り大きくなっている蕾を、睨みつけるように見つめていると、隣から投げかけられた予想外の言葉に、一瞬呆気にとられ反応が遅れた。
言葉の意味を理解できないままぱっと振向くと、緑の瞳がじっと見つめていて、どくん、と心臓が高鳴った。
背筋にぞくりと悪寒が走る。
先程覚えた違和感はこれだったのかもしれない、と、侑里はどこか冷たさを帯びた緑をじっと見つめて、ごくりと唾を飲んだ。
背をつう、と冷や汗が伝ってゆくのがわかる。
「こんな所に来る人は、あまりいませんから。それに、その制服…セント・リリア、ですよね。この辺じゃ、リリアの学生はあまり見ない」
彼は変わらず顔に微笑を貼り付けているが、それはすでに人好きのするようなものではなく、相手に圧迫感を与えるものでしかない。
どくどくと心臓が早鐘を打つのを感じて、侑里は右手でぎゅうと胸元を掴んだ。
先程、彼がやって来た時に感じた気配を思い出す。
霊気とも妖気ともつかない不思議な気配。人間とも妖怪とも断定できない。
その気配から慈愛も優しさも今は感じられないが、桜に流れていた妖気と確かに同じなのだろうと侑里は思った。
どうやっても隠せない、気配の根幹のようなもの---彼から感じるそれは、桜から感じたものと同じだ。
つまりはこの男が、"狂い咲き"の原因---。
そうとなれば、男は自然、妖怪と断定することになる。
人間で”狂い咲き”をさせるだけの霊力を持った者はこの近辺にいないと、先日自分で納得したばかりなのだ。
けれど、この男は妖怪だ、と強く言い切ることが、何故だか侑里にはまだ出来なかった。
確かに妖気は感じるが、霊気も感じるのだ。
妖気を出していれば妖怪に違いはないのだが、果たして本当に妖怪と断定していいものか。
何よりこの男からは、妖怪"らしさ"を感じない。
人間臭いのだ。
---どちらにせよ、調べる以外に手立てはない。問題は今、この状況をどう切り抜けるかだ。
侑里はぎり、と唇を噛み、ざり、と片足を軽く引いた。
その足にぐ、と力を入れた瞬間。
ピ――― ピ―――
突如として鳴り響いた電子音にびくりと体が跳ねた。
先程までとは違うリズムで心臓がどくどくと早鐘を打つ中、侑里はその音源が何なのか瞬時に理解した。
---コエンマ様からの連絡!
体からさあっと血の引いていくのを感じる。
これはこちらが応じるまで音は止まらないし、かといって今ここで取るわけにもいかない。
どうすることも出来ずに鞄をぎゅっと体に押し付けて狼狽していると、ふっ、と苦笑する声が聞こえて顔を上げる。
気付けばつい今しがたまでの圧迫感はすでになく、彼はあの人好きのする笑みを浮かべて侑里の鞄に目をやっていた。
「ポケベル?」
「え、……!そ、そう!ポケベル!」
「もう夕方だし、ご両親が心配されてるのかもしれませんね。すみません、引き止めてしまいましたよね」
はっとして応えると、彼は困ったように眉根を下げた。
その表情が切なげで、思わず頬が熱くなる。
「えっい、いえ、私の方こそ…あの、それじゃ、これで」
思わず顔を背け、鞄を押さえて出来るだけ音を消そうと努力しながら、そのまま逃げるようにして走り出した。
丘を下りた辺りでちらと振り返ると、彼は片手を桜の幹に押し当てていた。
彼の赤い髪は夕日に照らされきらきらと輝いて、さらさらと風に靡いている。
逆光で表情はわからないが、シルエットが真っ黒に浮かび上がっているようで、それはひどく神秘的で、第一印象そのままに綺麗だった。
不意に頬が風の冷たさを感じて、侑里は少し上がった息や早い鼓動が落ち着く前に、踵を返してまた走り出した。