rose liebe lilie 03 -狂い咲き-


はぁはぁと肩で息をしながら、侑里は駅の裏手にある細い路地の壁に、委ねるように背を付けた。
意識的に大きく呼吸をして、なんとか上がった息を整える。
けほ、と小さく乾いた咳が出た。
「…っはぁ、もう…タイミングが良いんだか悪いんだか」
胸に押しつけた鞄の中では、未だピーピーと耳障りな音が響いている。
侑里は溜息をつきつつ鞄の中に乱暴に手を突っ込み、掌ほどの大きさのコンパクトを取りだした。
少し分厚い円形をしたそれは、側面の半透明なボタンがチカチカと赤く点滅している。
侑里は、ふー、と少し長めに息を吐いて、その点滅するボタンをカチンと押した。
パクッ、と軽快な音がして開いたコンパクトは、正面の画面に即座に映像が映し出される。
「遅いっ!!」
飛び出してくるのでは、と思うほどの至近距離で映し出されたコエンマと怒号に、侑里は思わず顔を背けた。
「…申し訳ありませんでした」
「全く、何のためにこれをお前に持たせていると思っておるのだ?とっとと出んか!」
「仕方ないじゃないですか、こちらにも都合があるんですよ。…それで、どうしたんです?」
コエンマがこうしてコンパクトで連絡を取ってくることは、あまりない。
それは侑里自身が頻繁に霊界へ出入りしている為に、わざわざ連絡を取らずとも、直接会って話すことが出来るということが一因だ。
そもそも、侑里は仕事上でコエンマと連絡を取る必要はあまりない。
コンパクトを使うこと自体がそう多くないのだ。
しかし今回連絡してきたコエンマは、ひどく焦っているように見える。
相当急を要する用件であろうことは、想像に容易い。
コエンマは、うむ、と頷き、神妙に手を組んだ。
「大変なことが起こった。侑里、今すぐに霊界に来てくれ」
「わかりました。あと…そうですね、30分以内には着けます。何があったんです?」
「詳しい事は着いてからだ。なるべく急いでくれ」
頼んだぞ、と言いきらないうちに、ぷつん、とテレビが消えるように画面は暗転した。
侑里は首を傾げつつ、パタンとコンパクトを閉じる。
一体、何があったと言うのだろう。
システムが正常に作動しなくなったとか、電源が落ちてデータが吹っ飛んだとか、そういったことだろうか。
しかし、前者ならばわざわざ侑里を呼び出す必要などないだろうし、後者ならばこちらにも準備が必要なのだから、今すぐに、と言うことはないだろう。
それに、コエンマの音声の後ろから聞える喧騒は、通常の霊界におけるそれとは全く異なるものだった。
侑里は厄介事に巻き込まれたり、押しつけられたりする時特有の嫌な予感に溜息をついた。
「桜の件だって、調べなきゃならないことだらけなのに」
呟いて、はたと思い出す。
---そうだ、桜…さっきの男は一体何だったんだろう
男から感じた不思議な気は、妖気とも霊気とも言えるような、もしくは、そのどちらでもないようなものだった。
互いが混ざりあおうとしながらも混ざりきれていないような、反発しあっているような、惹かれあっているような。
そして、あの異様な圧迫感。
綺麗な緑色の瞳に見つめられた侑里は、蛇に睨まれた蛙のようにその場に竦んでしまった。
情けない事この上ない。
しかし冷静に考えてみると、何より不自然だったのは、初めにあの男と目が合った時だった。
あの熱に浮かされたような妙な感覚は、思いだそうとしてもはっきり思い出せない。
一体何だったんだろう、と考えようとしても、よくわからないのだ。
その瞬間をよくよく思いだそうとする自分と、思い出させまいとする自分が存在するかのように、その情景に靄がかかってしまっている。

「ああ、本当に、情けないったらないわ」

不意に耳元で、はあぁ、とわざとらしい溜息が聞こえる。
どこから漂ってきたのか、桜の花びらが一枚、ひらひらと侑里の眼前へと躍り出る。
侑里はばつの悪さに目を伏せて、胸の前に、するりと片手を差し出した。
花びらは意思を持ったようにひらひらと舞い踊り、手の甲にちょんと乗ると、くるりと一回転してみせる。
すると、一切の音も何もなく、花びらはふわりとその形を変えた。
手の甲に行儀よく座るのは、桜重ねの美しい女房装束を身に纏い、口元を奥ゆかしく扇で隠した女性だった。
黒々とした艶のある髪が、白い肌と薄桜に色づいた頬にさらりとかかって美しい。
「私がいなかったらどうなっていたことか知れないわね」
くすくすと笑みながら、漆黒の瞳でじっと侑里を見つめてくる。
「…もしかして、あの時の強風ってあなたがやったの、サクラ?」
「あら、他に何か思い当って?」
侑里ははぁ、と溜息をついた。
サクラは、この風体からも一目瞭然だがこの世のものではない。
侑里が物心着くずっと前から、父母を亡くす前から傍に控え、時には話し相手に、時には侑里の助けとなってきた存在だ。
「だって侑里ったら、何にも気付かないんですもの。あのままじゃ、今頃一切の記憶を失っていたかもしれないわ」
「どういうこと?」
楽しげに語るサクラに、侑里は眉根を寄せる。
「それを嗅ぐと記憶が消えてしまう、という花粉を持った花があるの。ええと、名前はなんていったかしら…」
「記憶を?そんな危険な花、あるなら霊界が管理しているはずだけど」
「そうね、もうこの世には存在しなかったはずだもの。でも、さっきの甘い香り、あれは間違いなくあの花の香りだわ」
侑里は口元に軽く指を押し当て、思案した。
もう、ということは、昔は存在した、ということだ。
そして、この世には、ということは、この世ならざる場所には存在する、ということになる。
それは即ち、魔界か霊界だ。
しかし霊界にそんな花が存在するなどと、侑里は聞いたことがない。
となれば、その花は今も魔界で繁殖を続けている可能性が高くなる。
「空間の歪みか、下等妖怪が持ち込んだか…」
侑里は自らの考えを確かめるように呟いた。
何にしても今は可能性しか存在しないが、例え仮想でしかなくても、考えないよりはマシだろうと思った。
いくつかのパターンを想定できていれば、事実が判明した際に対処しやすくなる。
「何にせよ、今は調査第一ね。情報が少なすぎる」
「そうね。とりあえず、そろそろホームに移動したら?遅くなるとジュニアが煩いわよ」
サクラが言い終わると、カンカン、と踏切が鳴り出すのが聞こえた。
ホームの方からかすかに聞こえる音声は、おそらく、電車が到着します、とでも言っているのだろう。
侑里とサクラは顔を見合わせ、ふっと吹き出した。
「グッドタイミング」
「ね。さ、お急ぎなさいな」
サクラはぱちりと扇を閉じ、赤い唇で緩やかな弧を描くと、またもかすかな音すら立てず桜の花弁へと姿を変えた。
そのままふわりと舞い上がり、侑里の制服の襟へと滑り込む。
侑里は鞄を肩に掛け直すと、軽く地面を蹴って駆けだした。






審判の門の大きな扉を開け、中に入ると、鬼や霊界人達がばたばたと忙しなく走り回っていた。
霊界は普段から忙しなくしているものだが、その比ではないのだ。 その光景は明らかに異様だった。
侑里は眉を顰め、足早にコエンマの執務室へと向かった。
軽いノックと共に、失礼します、と言いかけつつドアを開けると、普段は人の出入りの少ないその部屋にも、霊界人が入れ替わり立ち替わり、書類を持ってきたり何かしら報告しに来たりしている。
「あの、コエンマ様」
「ん、侑里か、よく来た!こらお前達、一旦出ておれ!」
「しかしコエンマ様、こちらに」
「ああもう後じゃ、後、後!判は押した、各部署ここから必要なものを探して持って行け!」
遠慮がちに声をかけると、コエンマはこちらを一瞥して、傍らで右往左往する青鬼に何やら書類の山を渡し、叫ぶように指示を飛ばした。
屯していた霊界人達は満員電車に詰め込まれるサラリーマンさながらにぎゅうぎゅうと押され、頑丈なドアがばたんと閉められる。
あっという間に静かになった空間で、コエンマははぁ、と溜息をついた。
「良かったんですか?」
「このくらいでパニックになるようではいかん。せっかく部署毎に責任者を置いておるというのに、これでは何の意味もないではないか。…まあ、座れ」
コエンマは書類で埋もれた机の傍らにあるソファに腰かけ、侑里もまた、促されるままにコエンマの向かいに座った。
あやめが、互いの前にかたんと湯呑みを置いて、コエンマの後方に控えた。
「…お急ぎの用件なのでは」
「ああ、お急ぎだ。だが、急がば回れと言うだろう」
コエンマは湯気の立つ湯呑みをふーふーと吹いて、ずずっと啜った。
一呼吸置いて、湯呑みを見つめながら言う。

「第78資料庫に、何者かが盗みに入ったようだ」

侑里はさっと血の気が引くのを感じた。
「第78資料庫!?あの、機密資料庫にですか?」
コエンマはこくんと頷く。
心臓がどくどくと早鐘を打つ中で、侑里は当該の資料庫に保管されていた資料と、その資料を守るための厳重な警備を思い出していった。
第78資料庫は、機密資料庫とも呼ばれるほど、霊界のトップシークレットクラスの資料を保管している場所だ。
規模はそう大きくないながらも、入室には情報部部長と閻魔大王、更には特防隊隊長の許可と厳重なチェックが必要となり、その部屋自体も万全なる警備体制の元、情報部に管理されている。
警備に当たる者は常に、少なくとも10人はいたはずだし、そもそも資料庫のある大資料館自体が隣接する大秘蔵館と同等の警備の厚さを誇っている。
それがどうして、と、侑里は思わず口元を手で覆った。
「……被害の程は」
「規模は小さい。盗まれたものは二つ」
コエンマの声はあくまで冷静で、侑里はほっと息をつく。
想定していた最悪の事態、例えば資料がまるまる全て盗まれていた、などということではなさそうだと、少しばかり胸を撫で下ろす。
だが、息を殺して続けるコエンマの言葉に、侑里は目を見開いた。

「一つは人間界における霊場の一覧。そしてもう一つは、“黒の章”だ」