rose liebe lilie 06 -狂い咲き- とぷん、と水面が小さく音を立てて、幾重にも重なった波紋が広がってゆく。 侑里は随分と冷たくなった水温にぶるりと肩を震わせて、ほぅ、と息を吐いた。 魔性の森に入ってけもの道を10分も歩く頃であろうか、そこには湖と呼ぶには少々小ぶりな泉がある。 その一面は反り立つ崖肌に接しており、降り注ぐ水がささやかな瀧となっている。 侑里は水中でゆっくりと歩を進め、その瀧にそろりと手を差し出した。 絶えることなく流れ落ちてくる水を両手で遮れば、水は一瞬手のうちに溜まり、すぐに溢れて散るように流れ落ちてゆく。 侑里は己の手中に溜まった水を引き寄せて、その手首に辺りに唇を寄せた。 水は霊気をよく通す。 それが澄んだ、穢れのない、純粋な霊気であれば尚の事だ。 霊気を帯びた水は時に場や身を清め、傷を癒し、溜まった穢れを浄化する。 侑里はこくりと喉を鳴らした。 この水を、そして泉を、侑里や幻海、霊界の人々は"聖水"と呼ぶ。 「ねぇ、サクラ」 泉を縁取る苔の生えた岩に腰かけて、侑里はぼんやりと呟くように言った。 「はい、ここに」 サクラはふわりと姿を現し、傍らの岩にちょこんと座る。 侑里はそれをちらりとも見ずに、右足を軽く蹴りあげた。 ぱしゃりと水が跳ね、また幾重にも波紋を作る。 身にまとった襦袢は肌にぴたりと吸いついて、水面下ではひらりと揺れている。 「何だと思う?昨日の、あの男」 「赤い髪の」 「そう」 サクラは手元の扇をぱらりと広げ、目のすぐ下までを覆った。 思案するように、或いは何か言いにくいことでも言うように、眉尻を下げる。 「わからないけれど、この世のものとは言い切れないわ」 「・・・妖怪、なのかな」 「さあ」 侑里が左足を軽く蹴りあげると、また、ぱしゃりと水が跳ねる。 近くの木々にはどこから迷い込んだのであろうか、本来魔界に在るべき小鳥が幾羽かとまっていた。 侑里は頭の中でファイルを捲るように、妖気と霊気の共存する可能性を思い出していった。 ひとつ、妖怪が人間の皮を被っている。 ふたつ、人を食って間もない妖怪。 みっつ、妖怪と人間の間に生まれた子。 よっつ、隔世遺伝で妖怪の血が濃く出た子。 ---可能性としては、どれも高いとは言えない。 「妖怪が人間のフリをしているのなら、例えば憑依しているのなら、本来の魂がどこへ行ったのか。それから、妖怪の肉体だって、どこへ行ったかわからない。人を食ったのなら、もっと霊気が薄いはず。妖怪と人間の婚姻等の報告はここ数年上がってきていないし、隔世遺伝だとしたら、相当古くない限り霊界が把握してるはず」 「あら、肉体関係は婚姻のみとは限らないわ」 「・・・そうだとしたら、元の妖怪は速やかに犯罪者登録される」 「捕まれば、でしょう」 「生まれる時にわかるわ、肉体と魂の反発が起こるもの」 侑里はふー、と深く溜息をついた。 昨夜は黒の章のことで頭がいっぱいで、すっかり考えることを放棄してしまっていた。 けれども、こうしてすっきりした頭と清められた体で考えてみても、やはりわからないことはわからない。 こめかみの辺りにずきずきと軽い痛みが走るのを感じて、侑里はざっと髪をかきあげた。 「でも、それだったら簡単なことではないの」 サクラがぱちんと扇を閉じて、にっこりと笑む。 「どの可能性も当てはまらないのなら、それは違うのよ。新しいケースだと考えればいいのではないかしら?」 「それじゃ、結局わからないことに変わりはないでしょ」 「馬鹿ね、わからないなら調べればいいのよ。あなたはどこの部局のエースなの、侑里?」 「・・・」 にこにこと言うサクラは、どこか楽しそうにすら見える。 侑里は何度目かの深い溜息をついて、ようやっと泉から足を引き抜いた。 襦袢の襟から裾の際までがぴたりと肌に吸いついて、うっすらとその色を滲ませている。 端々から滲み落ちる水滴は、肌に沿って玉のように滑り、やがて地へと還っていった。 「さあ、いつから調査を始める?」 「・・・サクラ、あなたどうしてそんなに乗り気なの」 濡れた髪や体をそのままに、幻海の道場へと歩を進める侑里の隣をふわふわと漂うように舞いながら言うサクラは、ひどく楽しそうだ。 その様はうきうき、やらわくわく、やらといった表現が妥当だろう。 侑里はげんなりと肩を落とし、吐き出すように言った。 「あら、だって」 サクラはすいと侑里の正面に周り、一瞬じっと正面から、侑里の瞳を見据えた。 そしてすぐさま愛くるしい笑顔を顔いっぱいに広げて言う。 「私は黒の章の調査なんて、ごめんですもの」 ---なるほど、要は陰鬱な仕事はしたくない、だから別の仕事を作る、ってことね 侑里は三度、脱力したように、長く深い溜息をついた。 サクラは依然にこにこと笑顔を貼り付けている。 「・・・今日は遅くいから泊まり、明日は半日、幻海さんに稽古をつけてもらうわ。調査は月曜から開始」 「かしこまりました、我が主」 「こういう時だけ畏まらないで、ずるいよサクラ」 「あら、だったら私がいつでも畏まっていられるように、もうちょっと頼もしくなってちょうだい?侑里が自立してくれたら、私は喜んで土に還るわよ」 サクラはふふ、笑う口元を扇で隠し、くるりとその身を翻した。 花弁は侑里の先を行くように、ふわりふわりと風に舞う。 向かう先は侑里が幻海から「好きに使いな」と明け渡された部屋であることは、考えずともわかっていた。 ああ言いながらもしっかりと侑里の着替えを仕度しに向かうサクラの後ろ姿に、侑里はばつの悪いような苦笑を洩らす他なかった。 |