rose liebe lilie 07 -狂い咲き-


「侑里」

頭に直接響くように、ふわりと呼びかける声に、侑里は顔を上げた。
小さな桜の花びらが一枚、ひらひらと舞ってくるのが見える。
侑里は小さく微笑んで、校門へと向かう足はそのままに、何気なく、そしてゆっくりと、髪を耳にかけ直した。
その指先に、花びらがぴたりと留まる。
そのままするりと制服の襟に滑り込むのを横目で見て、侑里は自然な動作で、手を鞄に戻す。
「ごきげんよう、ミス速水」
「ごきげんよう、シスター」
校門で微笑みながら生徒を見送る初老の修道女に、にっこりと笑みを返して、侑里は駅へと歩を進めた。


電車の中で、或いは歩きながら、侑里はゆっくりと頭に響いてくるサクラの声に耳を傾けた。
今日一日でサクラが集めた"例の男"の情報は、決して多いわけではなかったが、無用なものもまた、一つたりともなかった。
「要点だけ抜き出すと、」
侑里は部屋の扉をバタンと閉めると、ようやっと口を開いた。
「男の名前は南野秀一、仲山市立中学三年生。仲山市内に母親と二人暮らし」
「家は盟王高校の近くよ。行ってみる?」
「いずれね。今はまだ、時期じゃない。…で、成績優秀、スポーツ万能、友達も多くて教師からの信頼も厚い、……」
指折りながら一つ一つ挙げていき、侑里ははたと動きを止めた。
サクラはきょとんとして、侑里の顔をじっと覗き込む。
侑里は顔をしかめ、数秒の間を置いてから、絞り出すように言う。

「完璧すぎて気持ち悪い」

「………」

サクラはぽかんとした表情で、ぱちぱちと二、三度瞬きする。
そしてふっ、と吹き出して、ころころと笑いだした。
「やあね、侑里ったら、あなただって傍から見たら似たようなものでしょうに」
「ちょっと、一緒にしないで。私は、………わざとよ、わざと」
「あら、否定はしないの」
侑里がむっと目線で抗議の意を示すのもどこ吹く風で、サクラは扇の奥で更に笑みを深くした。
ひとしきり笑いきると、目尻にじんわりと浮かんだ涙に袖を当て、でもね、と切り出す。

「あなたがそれを"わざと"と言うなら、相手にとっても"わざと"かもしれないのよ?」

侑里は黙って口元に手を当て、思案する。
侑里は所謂"優等生"を演じている。
その理由は他でもない、霊界絡みの数々の厄介事を、それに付随する不審とも言える行動を、まとめて覆い隠してしまう為だ。
少々欠席が多くとも、学事への保護者の参加が少なくとも、普段の態度がそれらを補って余りあるほど良好ならば、さして問題にはならない。
例の男---南野秀一も、"優等生"を隠れ蓑にしているとすれば、その裏には必ず、隠したい"何か"があるはずだ。
その"何か"こそが侑里の求めるものである可能性は、決して低くない。
侑里はふっ、と小さく息を吐いた。
「サクラ、資料庫に行くわ。記録に不自然な点がないか調べて、そこから探っていく」
「また随分と地道な作業だこと」
「急がば回れ」
侑里は歌うように言うと、霊界へ行く為の準備に取り掛かった。





ドサリ、
霊界大資料館12階第127資料庫の一角に、埃っぽい音が響いた。
部屋の隅に申し訳程度に置かれた机は、決して大きいとは言えないが、人一人が資料を広げて作業するには十分な大きさだ。
侑里は数々の棚から抜き出してきたファイルを、半ば投げるように机に置くと、ふぅ、と息を吐いた。
「早く全データ移行されないかなぁ」
「あと何年かかることかしらね」
「私が現役の内に終えてくれれば嬉しいんだけど」
つい一年ほど前に立ち上がり、のろのろと進行している全資料データベース化計画を思って軽口を叩きながら、手近な椅子に腰かける。
資料ファイルをぱらぱらとめくり、これから始まる地味なこと極まりない作業を思うと、自然と溜息がこぼれそうになる。
侑里はそれを無理矢理飲みこんで、一度、ぐっと両腕を伸ばした。

「ぃよしっ、やりますか」






---意気込んで作業を始めてから、早三時間が経った。
人間界はそろそろ夕飯時であろう、侑里も生身であれば空腹を感じているはずだ。
しかし霊体である今はそんな心配もなく、侑里はただただ机に肘をつき、むっつりと眉を顰めていた。
ひたすらに書類を睨み、時折思いついたようにペンを走らせては、また書類を睨む。
サクラはとうに見飽きたその姿に、すでに花びらへと姿を変えてしまっている。
ふと、唐突にゴトンと思い音が響く。
資料庫の重苦しい扉の、これまた丈夫すぎる取っ手が捻られた音だ。
そのままギギギと摩擦音を立てながら扉が開き、コツコツ、と足音が続く。
それは時に探るようにゆっくりと響き、時に止まり、時に資料の出し入れをする音も加わる。
足音は波のように近付いては離れ、離れては近付いて、そうしてやがてぴたりと止んだ後、今度は迷いなく大きくなっていった。
「いらしてたんですね、侑里さん」
侑里のすぐ隣で歩を止めた女に、侑里はようやっと顔を上げた。
その目に驚きはないものの、ばつの悪さに近い後ろめたさがあった。
「跡、ついてますよ」
女は困ったように笑い、侑里もまた同じ笑みで頬を押さえる。
女は侑里と同じく情報部に所属する霊界人で、人間界的な言い方をすれば"同期"であった。
いくらか特殊な事情も相まって、交流は少なくない。
「調べものですか」
「ええ、少し。そっちこそ」
「私はシステムからの依頼で雑用です。彼らに一々探させたんじゃ、データ移行が終わるのは何世紀後だ…と、閻魔大王様がお怒りになって」
侑里は先ほど叩いた軽口を思い出し、呆れにも似た溜息をついた。
「…それで、この中にも必要な資料が?」
とんとん、と目の前に積んだファイルの山を指して言う。
いつの間にやらその山は、意識していたよりいくらか大きくなっていたようで、崩れはしないもののくらくらと小さく揺れた。
その山の一番上で、先ほどまで睨んでいた防衛部の資料が滑り落ちそうになったのを、軽く手を添えることで抑え込む。
女はそれを見ながら、ゆったりと首を横に振った。
「特に用という用はないんです。ただ、お伝えしようかと思って」
「?何か問題でもありました?この間の報告書に不備とか…」
侑里が訝しげに眉根を寄せると、彼女はまたゆったりと首を振った。
そして紡がれた言葉は、それまでの会話に比べるといくらかか細く、しかし不自然とは言い難い、緊張感すら孕んだものだった。

「先日回収した妖怪の魂から、登録番号が見つかりました。20時間後より、確認を行います」

侑里は一瞬目を見開き、ゆっくりと閉じた。
深呼吸でもするように、そう、と言葉を吐き出す。

「…人間界の時間だと、15時頃ね。……わかりました、同席します」
「助かります」

侑里が顔を上げて再び女を見ると、やはり女は困ったような表情のまま笑んでいた。